「今…なんて言ったの?」
 嘘だ…いや、嘘だと信じたい。現実であって欲しくない。ハルカはそう祈った。だけど…
「僕は記憶が元に戻らなくても良いと思ってるんです。」





7〜彼の思い、彼女の想い〜





 シュウの思わぬ発言にあたりは静まり返る。さっきまで意気揚揚とエスパーの森を目指そうとしていたのに。どうして彼はそんなことを?
「え?…ちょっと待って、意味がわからないんだけど?」
 倒れそう。というかもう目眩を起こしている。だけど立っていなきゃ。精神にふらつきを覚えつつもハルかは何とか答えを求める。
「皆さんが僕の記憶を取り戻そうとして必死なのはわかります。でも…戻らなくてもやって行けるんじゃないかって。」
 病院から支給された白系の室内着を着たシュウは胸元の服を必死で握り締めている。なんで?どうして?
「どうして…そんなこと言うの?ねぇ?…ねぇ?!」
 ハルかはシュウの胸元に掴み詰め寄る。倒しそうなほどの力の入れよう。サトシとタケシは慌ててハルカを静止する。
「落ち着け、ハルカ!」
「サトシ…だって…」
 さっきまであんなにやる気だったのに…目に熱いものがこみ上げる。今泣いちゃ駄目。今はまだだ…
「でも、シュウ…どうしてそんなこと言うの?お姉ちゃんのやる気…もしかしていらない?」
「違う…そうじゃなくて。」
「だったらどうしてよ!!」
 タケシとサトシに抑えられたハルカが叫んだ。かなり大きな声で。
「なぁ、シュウ…ハルカのこと思い出さなくてお前は本当にそれでいいのか?」
 タケシの言葉にシュウは一瞬戸惑いながらも、
「彼女の事は今からでも知っていける。でも…」
「私の事じゃない…」
「え?」
 不意に入ってきた彼女。
「私じゃなくて…ロゼリア達の事だよ!シュウが行方不明になって…記憶がなくなって…あの子達はずっとシュウに会えないの!大好きなシュウに!褒めてもらう事も、撫でてもらう事も、優しさをかけてもらうことも出来ずに…それでも、ずっとシュウの帰りを待ってるの!きっとシュウは戻るって信じながら!その子達のこと忘れちゃうってことなんだよ!」
 やっぱり…ハルカはハルカだった。
 自分の事よりまず他人。ハルカが嘆いていたのは…自分を忘れられる恐怖よりも…シュウのポケモンたちのことだった。
「………それぐらい解ってます。」
「解ってない!ポケモンが怖いからそんなことが言えるのよ!忘れちゃうってことは…極力触らなくても済むし…」
「あの子達の事はこれから絶対に克服します!…だから…」
「違うよ!!何で解らないの?!これからじゃないの!これからも大事だけど…あの子達との思い出は?出会ったこと…一緒にバトルした事…コンテストに出た事…記憶が要らないってことは…あの子達の思い出まで否定するんだよ!あの子達の思い出にシュウは欠かせないの!あの子達には他の人間なんていない!シュウだけなのよ?!」
 それを聞いているとき…シュウも辛かったが…聞いている仲間たちも辛かった。
 パートナーであるシュウが自分を忘れると言う恐怖。それはポケモンたちに絶対に悲痛な思いを与える。それを今シュウはしようとしているのだ。ハルカが怒って当然。でなければ確実にサトシが殴っていただろう。
「戻らないって言う事だったら少しは解る。でも、見つければ戻るのに…何でそれをしないの?!そんなに怖いの?!そんなのだったら……私がロゼリア達を引き取る!例え嫌われてでも!」
 それを言い放つとハルカはサトシ達の手を払いのけ…ロゼリア達の所へ駆けて行ってしまった。
「お姉ちゃん!僕、お姉ちゃん追いかけてくる!」
 ハルカの後ろを追う様にマサトまた駆け出す。そして残されたのは…サトシ、タケシ、シュウ…それにルリカと担当医。
「なぁ…シュウ…」
「なんですか?」
「オレは…ハルカが怒っても当然だと思う。パートナーから忘れられるって…本当にきついんだぜ?オレのピカチュウも一度記憶を操作された事があってオレのことを忘れてたんだけど…その時本当に辛かった。その気持ちをポケモンにさせるなんて…オレも…お前が許せない。」
 冷たい言葉。でも言われてもしょうがない言葉。シュウは右手で左腕を掴みながらその言葉に必死で耐えた。
「でも…記憶が元に戻ったら…もしかしたら…」
 慌ててシュウは口を塞いだ。もしかしたら?
「何だ?もしかしたらって…」
「いや…あの…」
 タケシの問いにシュウは有耶無耶に答える。その行動を見ていて…ルリカが思わず入ってきた。
「シュウさん…もしかして昨日の夜の会話…」
 その言葉から…シュウの心にある葛藤が漸く伝わる事となった。






 昨日の夜。
 ハルカたちがケーシィ探しの準備を進めているとき、ルリカだけがシュウの担当医師に呼ばれ診察室へと足を運んだ。
「何かご用でしょうか?」
「うん…用って言えばようなんだけどね…ルリカさん。」
「はい。」
「君はシュウ君の記憶がなくなってから知り合ったんだよね?」
「はい。山で倒れているところを家まで運びました。」
「そうか…」
 どこか医師の顔は浮かない。何かを使えようとするも伝えにくい。そう見受けられる。
 そして暫く考えた医師は大きく息を吸い、覚悟を決め、ルリカに話した。
「もしかしたら…シュウ君の記憶が戻ると…君の事を忘れてしまうかもしれない。」
 …酷な言葉だった。今…自分の前で明るく振舞っているシュウが自分のことを忘れてしまう?意思は間違いなくそう言っている。
「私のことを…ですか?」
「そう。…正確には記憶がなくなってからのことを。つまり今の状態の事を忘れてしまうかもしれない。」
「どうして…」
 悲痛な顔で医師を見つめた。
「記憶は…箪笥みたいな物なんだよ。」
「箪笥…?」
「人間生きている間に覚えられる記憶や思い出と言うのは箪笥の様に限られたスペースしかないんだ。でもどんどん新しい記憶や思い出が入ってくると…気付かないうちに古いものや要らないものを捨ててしまうんだよ。でも、今のシュウ君には大きなスペースがある。記憶と言う箪笥の中身が無いのからね。だから今は何の問題もなく記憶を受け入れられるけど…もし戻ったら…箪笥には確実におさまりきらない。前は収まっていたよ。でも、新しい記憶があるからそうはいかない。そうするとどうするか…」
「要らない記憶を消す…」
 ルリカの発言に医師はコクリと頷いた。
「もしかしたら消される記憶が新しい記憶である可能性が高いんだ。だから…一番関係のある君は話しておきたくて…」
 ルリカは泣きそうだった。無理も無い。知り合ってここまで仲良くなれたのに…でも…
「それはそれで良いと思います。」
「え?」
「シュウさんの記憶が元に戻る事は皆さんが願っています。もちろん私も。だから記憶が元に戻る事に何も悪い事はありません。それに忘れてしまってもまた覚えてもらえれば良いです。幸い日にちはそんなに経っていないみたいですし。」
 明らかに彼女は我慢している。でも…彼女はとても強かった。彼らの幸せを願う…そう言う風に医師の目には見えた。
「君は偉いね。」
「そうでもないです。当然です…それにシュウさんたちには幸せになる義務…そして幸せになる願いがあるんですから…。でも、シュウさんには言わないで下さい。きっと記憶が元に戻る事を拒絶しますから…」
「解った…。」
 これが昨夜繰り広げられた会話。







「聞いていたのだったら解ると思います。私は良いんです。忘れられてもまた覚えていただければいいんですから。それにハルカさんたちが私のことを覚えていてくれる。それだけで十分です。」
「よくない…良くないです。」
 シュウは大きく首を振る。
「貴女の記憶を忘れても良いなんて思いません!忘れたくない!」
「だけど…そうしたらさっきハルカさんの言ったように…貴方のポケモンたちが悲しむんです。私はそんなのちっとも嬉しくない。人の不幸の上で成り立つ幸せなんて心底喜べません!」
 珍しくルリカが大声を出した。二人とも辛いんだ…。それが解るからタケシ達は声をかけられないでいる。
「でも、貴女が居ない記憶なんて…僕には何の価値も…」
「シュウ…彼女の気持ちがわからないのか?」
「タケシ…さん?」
 声はかけないつもりだった。でも、かけないときっと後悔する。そう思ったタケシは意を決してシュウに問い掛けた。
「今の記憶も確かに大切だ。でも、ルリカさんの言う事も確かだ。人の不幸せの上に幸せは成り立たない。」
「だけど…忘れてしまうくらいなら…。」
「シュウ…お前、逃げてるじゃんか。」
 サトシが…シュウを睨んでいた。
「僕が…逃げてる?」
 また…何かから逃げている?でも何から?
「そうだよ!さっきから聞いてりゃ、ルリカさんを忘れるのが怖いだのなんだの!ようは、お前が覚えてる自信がないから言ってんだろ!本当にお前にとって大事な記憶だったら消えるわけが無い。元に戻った記憶の中からもっと要らない記憶の方が消える…違うか?」
 サトシの言う事は正しかった。
 医師もそう告げているのだ。新しい記憶を要らないと判断した場合、それが消えると。だったら要ると判断した場合は消えない。そういう事だ。でもシュウは…その自信がないからこそ、記憶が戻る事を拒んでいる。確かに…
「逃げ…ですね。」
「だろ?つまりは…お前が必要だと思えれば問題ないんだよ!記憶が元に戻っても…。だからさ…戻そうぜ?」
 その言葉にシュウは…笑った。彼は確かに笑っている。でもこの笑顔って…確か…
「シュウが問題を解決した時の顔だな。」
「そうだっけ?タケシよく覚えてるな。」
「まぁな。で、どうするんだ?シュウ?」
「みんなが幸せにはなるにはそれしか方法がないのなら…頑張って戻します。」
「そうそう!じゃ、ハルカに謝れよ?」
「ええ。」
 結局記憶は戻す。それがみんなの幸せだから。そうと決まったら早速ハルカを追いかけなくては。そう思い、シュウが足を走らせようとしたとき、彼女の弟が悲痛な声をあげながら走ってくる。
「大変だよ!お姉ちゃんが…フライゴンに乗って一人でエスパーの森に!」




そしてこの行動に僕は思い知らされたのです。
彼女が…どれだけ僕を思っているかと言う事を…。









作者より
やっぱりハルカには無謀な行動が良く似合います。
2006.7 竹中歩

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