その日、目覚ましのアラームがなったときから少年……シュウの憂鬱は始まった。 「あの! これ、受け取ってください!」 その日最初に声をかけられたのは通学途中。家を出て10分ほどのこと。 その少女とは全く面識がなく、そのお願いに戸惑ったと聞く。 「すいません……ご迷惑かもしれないんですけど……」 次の少女と出会ったのは駅の構内。通学に使ういつもの電車を待っている時だった。 またもやこのお願い事に困惑していたと言う。 「野暮なこと聞きますけど……君って彼女いる?」 更に次の少女に問い掛けられたのは漸く乗車できた電車の中。 人目もはばからずその少年より年上と思しき学生は詰め寄るように聞いてたらしい。 シュウが学校に着くまでに声をかけられた人数:十二人 そのうち面識が全くない人:十人 そして……今日は更に声をかけられる人数が増えるだろう。 知っている人間も、知らない人間も……きっと…… 茶色で甘い香りの正体は? 教室に入った瞬間、シュウは今日と言う日を更にまじまじと実感させられる。 「おはよう……」 扉を開けたシュウは朝から重たい声でクラスメイトに挨拶をする。 その声に反応して数人の友人が返事を返しくれた。本来ならもっと多くの生徒が声をかけてくれるはずだが、今日はそうもいかない。男子も女子も皆そわそわしている。 理由は言わなくても教室に漂う雰囲気で分かる。 ドキドキして友人に不安そうな顔で相談している少女や、ハラハラしながら今日はどうなるだのと話している男子。そして教室に漂う甘い香り。 今日は……聖バレンタイン。 全国で女性がチョコレートと言うキューピッドを携え男性に思いを伝える日である。 鳳炎学園は他の学校のようにチョコレート持参を禁止してはいない。寧ろ持参しろと言うほどだ。 それは思春期を思う存分謳歌して欲しいと言う理事長の考えからである。 女子生徒は嬉しいかもしれないが、男子生徒としては貰えない事の方が多いので、ある意味この日は天国と地獄である。 そんな天国と地獄の日。多くの女性の人気を集めるシュウにとってまず平穏無事に暮らせるわけはなかった。 「全く……」 今朝、学校に来るまで何人もの女子に足を止められ危うく遅刻するところだった。それを考えて見てもやはりバレンタインはシュウに味方をしてくれていない様子。まだ授業も始まっていないのに既に疲れ果てている。 「今年もご苦労様ね」 頑張れと言わんばかりに笑顔で挨拶してきたのはやはりハルカだった。 「今日は君の方が先か。でも、電車の中では見かけなかったけど?」 「だって、バレンタインのシュウに付き合ってたら遅刻しちゃうかも。だから一本早く乗ったの。シュウ様ファンクラブにも目、つけられたくないし。今日は殺気立ってるから」 「実際、遅刻しかけたからね。君の考えは正解だと思うよ」 席について漸く一息つくシュウ。その疲れはてな表情を見ながら 「今年のバレンタインは去年ほど騒いでないって聞いたんだけど……シュウには関係なかったみたいだね」 「どこが去年ほど騒いでいないか聞きたいよ」 「でも……去年ほど確かに騒いでないよ? その証拠に私、今年は誰とも交換してないもん」 ここ数年、友人同士で交換する『友達チョコ』と言う物が流行っていたが、今年はそれが無いらしい。更には義理チョコも数を減らしたと聞く。つまり本命にそれだけ力を注いでいると言う証拠。 しかし、義理チョコを貰っている男子生徒ならともかく、貰うチョコレートの九割以上が『本命』と言うシュウには全く関係のないこと。それどころか数は毎年増えるばかり。 「この国のバレンタイン情勢を変えられる人がいるなら確実に僕は頼み込んでいると思うよ」 「シュウ、甘い物駄目だもんね」 「食べられないと言うわけじゃないんだけど……あんまり好んでは食べたくない」 「こんなに美味しいのに」 ハルカは片手に持っていた動物の絵柄のついたチョコレート菓子を一つ、口へと運ぶ。確かワルツだがサンバだが音楽関係の名前が付いたような菓子だった気がする。 「君……この甘ったるい香りのする教室でよく食べられるね」 「私はシュウと違って甘い物好きだから関係ないかも。でもねー、本当はこれじゃなくて板チョコが食べたかったの。だけどさ、コンビニ、板チョコ売り切れててさ……」 「多分、チョコレート買うの忘れてた人とかが買いに走ったんだと思うよ」 それは深夜営業を行うチョコレートを取り扱っているお店なら毎年見られる光景。 前日になって慌てて作ろうと駆け込んでくる女性たちがシュウの脳裏には浮かぶ。 「慌てて買いに行かなければならないほど大切なチョコなら普通忘れないと思うんだけど……」 「私に聞かれても……」 「確かに。君に恋愛沙汰を聞くほうが間違っていたね。本命がいない人に聞いた僕が悪かったよ」 はたから聞いていれば普通に謝っているように見えるが、シュウの表情は小ばかにしている笑い方。どう見てもそれは嫌味。 それはシュウと仲の良い友人に言わせてみれば『愛情の裏返し』だと言うが、そんな真意をハルカが知るはずも無く、単純で純粋なハルカは素で怒ってしまう。 「本命がいてもシュウには関係ないでしょ! 私が誰にあげようと勝手じゃない!」 「勝手だけど……手作りは止めておいた方がいいよ。君の料理の腕は負傷者を出すから」 「あー! もう! むかつくかも!」 そのやり取りを見るに、やはりシュウの嫌味は愛情の裏返し。 典型的な好きな子をいじめるタイプ。 その証拠に、このやり取りのときだけは疲れを忘れて笑っていたと言う。 漸く今日の授業が終わって、怒涛のバレンタインもそろそろ終止符が打たれる放課後。 少し疲れた表情のシュウとハルカは肩を並べて、絵南の街を歩いていた。 「まさかバレンタインにシュウと帰れるとは思わなかったかも」 「え?」 「だって、放課後は大抵告白とかに呼ばれてて断るのに時間掛かったりしてたでしょ? だから他に友達誘って帰ろうと思ったのに……」 そこでハルカは一気にテンションを下げつぶやいた。 「バレンタインに彼氏持ちや好きな人の居る女子を誘ってもそりゃ無理だよね」 今日は誘った女子の友人全てに断られ、一人で帰ろうとしていたときにシュウに誘われたのである。 こう言うとき、本命が居ない女子と言うのは本当に寂しいものだ。 何故、こんな風にシュウがバレンタインと言う今日に普段の放課後を送れているのか。それはシュウの努力にある。 今年のシュウは……凄かった。 何が凄かったかと言うと、チョコレートの量や告白された回数ではない。 貰わないようにする為の手段が凄かった。 靴箱は先生の許可を貰い、この一週間は鍵をつけて、勝手に他の人が開け閉めできないようにしていた。 机やカバンにおいては極力、席から離れ無いようにして阻止。 それでも移動教室などの間に入っていた物は丁寧に断りに行くほど。 そして放課後の呼び出しは行くには行くものの、チョコレートは受け取らず会話だけでお断りをしてきたのだと言う。 「本当、今日はお疲れ様」 「今年はいつも以上に疲れた気がするよ」 「そりゃ、疲れるわよ。一々断りに言ってたじゃない。前は貰った物はしょうがなくもって帰ってたのに」 「この前も言ったけど、今年は貰わないことにしたんだ。気持ちにも答えられないし、何よりホワイトデーが毎年大変なんだよ」 「あー……確かにシュウの貰う量から言ってお金掛かりそうだよね。ホワイトデー」 よく、お返しは三倍返しだというが、そんなことをお金持ち学園でも有名な鳳炎でもやっていたら破産するに違いない。実際、シュウが送り主に返したチョコレートの中には、カバンやコートで有名なのブランドで限定販売されたチョコレートも混じっていた。それの三倍返し……考えただけでぞっとする。 「それを考えると、確かに貰う前に断っていたほうが良いかも。だけど、断るのってしのびないでしょ?」 「バレンタインじゃなくても申し訳なさは残るよ。でも、バレンタインの方がしのびないのは確かかな。自分の為に用意してくれた物を断るわけだからね」 「行き場の無くなったチョコレートを自分で食べるほど惨めなことって無いよね……なんか見てて辛いもん」 ハルカ自身、後輩が泣きながらチョコレートを友人たちと食べていたのを目撃している。思いも伝わらなくて、更には食べてももらえないなんて……ダメージが二倍なるのは当たり前である。 「本当はシュウに『断らないで責めてもらってあげて』て言いたかったんだけど、シュウも考えてたんだよね。……なーんか、どっちも悪くないのに傷つくって変だよね」 バレンタインはきっと傷つく人の方が多い。 義理チョコすらもらえなかった男子。 チョコレートを受け取ってもらえなかった女子。 そして……断らなければならない男子。 辛いことが多い日。 「なのに毎年こんなに大騒ぎするのって不思議。チョコレートが美味しければそれで私は良いんだけどな」 「……いつまで経っても、君はそのままでいて欲しいよ」 「行き成り何よ?」 「いや、お祭に巻き込まれて、送る方の気持ちを考えない人にはなって欲しくないってこと」 「それって……今年もシュウにチョコレート渡さなかったこと?」 「そういうことだね」 ハルカはシュウが甘い物を苦手と知っている為、バレンタインにチョコレートを送らない。 つまり、本当にシュウを思っているのならハルカのようにチョコレートを送らないのが当たり前なのだが……シュウにチョコレートを送った少女たちは、送ることや告白することに精一杯でそこまで気持ちが回らなかったのだろう。 それを踏まえると、やはりシュウのことを一番思っているのはハルカ。 今年もチョコレートが貰えなかったことで、今年も自分の気持ちを察してくれていると安堵するシュウ。 しかし、やはり気になる人から今年も貰えなかったと落胆するシュウが居るのも確か。 毎年シュウはこの全く逆の気持ちから板ばさみにあう。 「実際は……嫌いな物でも良いから貰いたいんだけど」 ハルカに聞こえないように自分にだけ囁いた。 好きな人から貰うのは気持ちだけで十分と言うが全くその通りだと思う。 ハルカからなら、甘ったるいチョコレートでも欲しいと願う自分。ようは、バレンタインと言う恋愛の行事に形になる思いが欲しいだけ。板ばさみどころか三つの思いが生まれて遺伝子のように絡まっている。 つくづく自分は彼女に関して我侭だと思う。しかし、それは言い換えれば、気になる相手だからこそ生まれる我侭。そんな不思議で不安で温かい気持ちを心に抱きながらシュウは帰宅時をハルカと並んで歩くシュウ。 そのとき、シュウは今年の当初の目的を忘れていたことに気が付いた。 「あ……」 「ん?」 「通り過ぎた」 「通り過ぎた? まぁ、確かに絵南駅を出たら二人とも方向違うわけで、そこで別れなくちゃいけないんだけど、今日はシュウが私の家の手前にある本屋さんに用があるって言ってたから目指してたけど……本屋さん、まだ過ぎてないよ?」 「違うんだ! こっち!」 そうきっぱりと否定するとシュウは右手でハルカの左腕をつかむと、今来た道を戻っていく。 「どこ行くの?」 無理やりハルカを引っ張って歩いてはいるが、足元は危なくないようにハルカを気遣ってシュウは目的の場所へと向かう。 百メートルほど戻ってついた先は本屋さんではなく、公園だった。 「何で……公園?」 その公園は絵南でも一番立派で施設が整っている。地下には自転車置き場や荷物預け場所などが備えられており、家族だけでなく学生やお年寄りなども使ういつもにぎやかな公園。 その入り口で漸く立ち止まったシュウにハルカは顔を覗き込むようにして問い掛ける。 「ちょっとね。あ……ごめん。腕……」 「それは全然きにしてないんだけど……ちょっとって何?」 普通なら異性に腕をつかまれていたことの事実に気づき恥ずかしがったりするものだが、ハルカの興味は既にそちらからそれてシュウの『ちょっと』の方に移っていた。 シュウは少し笑うようにして地下へと足を進めていく。追いかけるようにしてそれに続くハルカ。そしてシュウはコインロッカーの前で足をとめる。 「ここに預けてたんだよ」 コートのポケットから数字のついたプレート付きの鍵を取り出すと、同じ数字の描かれたロッカーの鍵穴へと差し込む。 ロッカーはガチャと言う音を立てるとシュウの手によって開かれた。 そしてなかに入っていた物をシュウは大事そうに取り出す。 「それ……何?」 麻袋のような素材で出来た袋を白いリボンで結んでいる手のひらサイズの巾着。外から見てもそれは何かわからない。唯一手がかりと言えば、リボンの結び目についている一枚のタグ。そこにはみた事も無い花が描かれている。 「これを君にあげるつもりで預けてたんだよ」 「…………私にぃ?!」 「ああ」 「でもでも! だったら学校で渡せば……」 「バレンタインの日は何回か盗難にあったことがあるんだ。だからそこより安全な場所をと思ってね。昨日のうちにここに入れておいたんだ。ほら、手出して」 「うん……」 おずおずと手を出すハルカ。そしてシュウから手渡される巾着袋。中には何か柔らかい物が入っている様子。押してみたりするとさわさわと言う音がする。そして、 「甘い香り……! チョコレートの匂いだ!」 今日、教室に充満していた香りと似ている。でも、チョコレートがこんなに柔らかい訳が無い。 「チョコレートの匂いはするんだけど……中、開けていい?」 「それ、開けるものじゃないよ」 「え?」 「香りを楽しむ物。チョコレートコスモスのポプリ」 「チョコレートコスモス? もしかして、結び目に付いてるタグの絵の花?」 確かに言われて見ればその花の形はコスモス。でも色が茶色い。 「チョコレートの色にも似ていて、香りもチョコレートに似ていることからこの頃バレンタインに普及しだした花だよ」 「へぇ……そうなんだ! やっぱりシュウって凄いね! 花のことなら何でも知ってるんだもん!」 「なんでもって訳じゃないけど……ある程度ならね」 素直に誉められると少しくすぐったいが、誉めてくれている相手がハルカならそれ以上に嬉しい事だろう。 「だけど、どうして私にくれるの?」 そうだ。それが一番の問題である。バレンタインをあれだけ嫌がっていたシュウが何故? 「僕は言ったよね。今年は貰うのはやめにしたって」 「うん。さっき言ってたけど……」 「だから、あげる方にしたんだよ。こっちの方が楽だしね」 「なにそれ!?」 「それに、君は交換するバレンタインの方が好きだって言ってたからね」 「確かに言ったけど……」 『毎年女子だけが渡すなんてフェアじゃない!』そう昨年叫んだハルカ。切欠はシュウが他の国では交換したりするバレンタインもあると教えてくれたからだ。でもまさか、それを覚えていて実践してくれるなんて…… 「だけど、シュウバレンタイン嫌いじゃ……」 「チョコレートが苦手なだけであって、バレンタインは苦手だなんて言ってないよ」 「そんな―!」 貰う物を貰って御礼すら言うことを忘れていたハルカ。 実は……今年はシュウのために何も用意していない。だから、シュウの交換という言葉に困ってしまっている。 「なんでこうするってこと言わなかったのよ! 私、シュウが今年は貰わないって言ってたからちゃんとした物用意してないかも!」 「…………ああ」 その言葉でシュウは納得する。何故ハルカが今年はくれる予兆すら見せなかったのかと。 自分の言ったことを本当に純粋に受け止めていたから何もくれなかったのだ。 「別に気にしなくて良いよ。交換できなくてもホワイトデーに貰えば済む話だしね」 本当はバレンタインに何も貰えないのは物凄く心残りだが、いまさらどうこうしろと言う問題でもない。 それに、この結果はシュウ自身がちゃんと言わなかったが故に起きてしまった事態。だからハルカを責める理由も見当たらない。 「そういう問題じゃなーい! 交換するつもりで買ってくれたものならちゃんと交換しなくちゃ! それに私三倍返しなんて出来ないかも!」 「三倍返しなんて望んでないから良いよ」 「シュウが良くても、私が良くないの!」 ハルカは貰ったばかりのポプリを自分のカバンに入れると、今度は公園に入ったときとは逆に、ハルカが右手でシュウの左腕をつかんで公園を飛び出した。 「急ぐと転ぶよ」 「うるさいかも!」 ハルカはシュウのように足元を気遣っては居ない。確実に自分のペースで歩いている。しかし、シュウはそれを言うことはせず、ハルカのペースにあわせて歩いていた。そして漸くたどり着いたのはハルカの家の前。 「え……」 「さぁ、入って」 何故連れて来られたのかが分からない。 しかし、そんな困惑に満ちるシュウをハルカは無理やり家に連れ込む。 「ママー! ただいまー!」 「お帰りなさい、ハルカ。あら? 今日はシュウ君も一緒なのね。いらっしゃい」 ハルカと同じような微笑で迎えてくれるハルカの母親にシュウは軽く会釈をする。 ハルカの母親は二人の仲をそれはそれは楽しそうに見守っており、こうやってシュウがくることは大歓迎らしい。 「お邪魔します」 「ハルカの部屋散らかってると思うけど、上がって。でも、どうしたの行き成り。今日はデートじゃなかったはずでしょ?」 「デートじゃない! それに、昨日片付けたばっかりだから今日は部屋綺麗かも!」 むくっと膨れて今の状況を簡潔に説明すると、ハルカはシュウをつれて自室のある二階へとあがって行った。 「ちょっと部屋で待っててくれる?」 ハルカの言うとおり、部屋は片付けられていて思った以上に綺麗だった。 シュウがハルカの部屋を訪れるのは今日が初めてではない。もうこれで何度目か分からないくらいだ。 普通なら異性を部屋に入れるのをこの年頃の学生は拒むだろうが、二人は親友と呼べる間柄。だから、友達を部屋に招きいれるような感じでなんでも行き来している。 なので今更改まって緊張する必要も無く、シュウは部屋で待つことを了承。 「出来るだけ早く戻ってくるから。あ、棚にある漫画とか読んでて。本系なら何見ててもいいからさ」 パタンッ。 蝶番の音の後に扉の閉まる音。その後に階段を駆け下りる音が耳に届く。 「漫画とか読んでてといわれてもね……」 実際、異性の部屋に一人きりにされても何をすればいいのか分からない。 ハルカの部屋は淡いパステル調の布製品が目立つ。 桜色のカーテンやオレンジのクッション。カーテンと同じような色の布団と木製のベッド。枕もとには多くのぬいぐるみが飾られており、机の上には写真や教科書。あとはメイク道具などが置かれたドレッサーがある。少し中学生にしては幼いがいかにも女の子といった部屋だ。 「片付けたって言うより……押し込んでる気がするけど」 よく見てみれば、窓際の本棚の中にある本は数冊、無理やり押し込められている。こう言うところはハルカらしい。 しかし、あまり観察するのも悪いと思い、シュウは自分のカバンから読みかけの推理小説と眼鏡を出してそちらに意識を集中させることにした。丁度、小説の続きが昼休みから気になっていたところである。そのとき下から微かだが笑い声が聞こえてきた。 「ハルカがそれやるのって久しぶりね」 「私もそう思う。でもやって見る」 「そうね、これは貴女がやった方が良いかもね」 「分かったからママは黙ってて欲しいかも!」 賑やかな親子だ。まさにかえるの子はかえるといったところである。 そのやり取りが少し可笑しくて笑ってしまった。本当ハルカは見てても飽きないが、聞いていても飽きない。 そんな時々聞こえる親子のやり取りと、小説の推理を交互に繰り返すこと二十分。ハルカであると思われる騒がしい足音が聞こえてきた。そしてやはりハルカの部屋の前でぴたりと止まる。が、入ってこない。 「シュウ、開けて欲しいかも―!」 読みかけの小説に栞をはさんでテーブルに置くと、シュウはハルカに頼まれたとおり扉を開ける。 そこに立っていたのはコーヒーと紅茶、そして何かの焼き菓子をお盆に乗っけて持っているハルカの姿。 予想していなかった姿に少々あっけにとられるシュウ。 「ごめん、遅くなっちゃった」 つかつかと部屋に入るとハルカはお盆をテーブルの上におき、その場に座る。 「どうしたの? 突っ立ってないで座りなよ」 「ああ」 言われたとおりテーブルを挟んで床に座る。一体何事だろうか? 「久々に作ったからあんまり自信ないけど、良かったら食べてくれる?」 お皿に乗った茶色いパンケーキ。真ん中には白い塊がのっている。多分それはバターかマーガリン。つまりこれはホットケーキか何かの小麦粉を使ったお菓子。 「何……作ったんだい?」 「パンケーキとホットケーキの間みたいなもの? 名前なんてわからないや」 その言葉がシュウの不安を駆り立たせる。 あの料理音痴のハルカが作った物。しかも名前すらわからなくて、甘い香りはするがホットケーキやパンケーキにしたら色がどす黒くて、何一つ安心できる要素が無いお菓子。それを今、シュウは進められている。 「えっと……」 「やっぱり私の作った料理は食べるの怖いわよね。でも大丈夫。ちゃんと味見はしたから」 「うん……」 気になる女の子が作った物なら喜んで食べたいが、ハルカを気にしている自分と、人としてこれを食べてもいいのかと迷う自分がシュウの中で戦っている。そんな時、扉がコンコンと叩かれた。 「ハルカ?」 「何? 開けていいかも」 扉を開けたのはやはり母親。片手には何か持っている。 「ママはもう使ったから、後は二人で使いなさい」 「ありがとう。やっぱりメープルシロップは欠かせないよね」 飴色の液体が入ったボトルを受け取るとハルカはそれを自分のケーキへとかける。それはシュウにとって甘そうな光景ではあったが、不思議と美味しそうにも見える光景だった。 「シュウ君も冷めないうちに食べて見るといいわ。ハルカはこれだけは上手なの。私でも敵わないくらいにね。だから大丈夫よ」 「え……」 母親から言われた言葉に少くシュウ。 「大丈夫ってそこまで連呼しなくても……」 「だってこうでもしないとシュウ君は怖くて食べられないでしょう? じゃ、ママは下にいるわね」 扉が閉まってゆっくりとした足音は遠ざかっていった。 「あの……怖かったら食べなくてもいいからね。私の料理が皆怖いって言うのは知ってるから。シュウが食べられなくても、私が食べるから大丈夫かも」 その台詞はシュウを気遣って言っているが、きっと悲しい気持ちだろう。 そんな自分の料理を自分で貶すという行為をハルカにさせているということにシュウは気づくと、徐にケーキにフォークを伸ばした。 メープルシロップはあえてかけず、丸い形をしたケーキをフォークで器用に一口サイズにして、 「いただきます」 一気に口へと運ぶ。 その行動をハルカは真剣に見詰めていた。 …………暫く流れる沈黙。 「やっぱり、美味しくない?」 「………なんで?」 「え?」 「美味しい……」 シュウから言われたその一言でハルカはにっこりと微笑み胸をなでおろす。 「良かった―!」 「本当、美味しい」 ケーキは確かにどす黒くて苦いことには間違いなかったが、それはココアで色付けされているために黒かっただけ。苦いのも焦げから来る苦さで無く、何か違った鼻をくすぐるようなほのかな香りがかもし出す苦さ。だから、不味い苦さではなく、美味しい苦さ。上に乗っかったマーガリンと思しき固体が程よく溶けて、また一つ違った美味しさを作り出している。 シュウが今まで口にしたホットケーキやパンケーキの中では上位に上るほどの美味しさである。 それをハルカが作ったのだ。 「料理音痴の君が……これを?」 「うん。これは私が小さい頃ママから習った料理の一つ。本当ならクッキーとかの方がもっと小さいときに教えてもらったんだけど、どうしても上手くいかなくてさ。でも、これだけはなぜか作れるの」 ハルカもシュウ同様に一口サイズにしてケーキを口にほうばる。 「うん! 味見のときと味が一緒でよかった!」 「でも、何でこれを気なり作ろうと思ったんだい?」 ハルカにケーキとともに差し出されたブラックコーヒーで一息つくシュウが質問する。 多分これはあのポプリと交換するつもりで作った物。でも、別に作らなくても街に行けば他に買うものがあったはずなのに。面倒くさがりなハルカがどうしてこんなことをしたのか不思議でしょうがない。 「んー……バレンタインに交換するならやっぱりチョコレートとかお菓子関係がいいかなって思ったんだよね。でも、シュウはチョコレート苦手だからさ。本当は九割以上カカオって言うあの苦いチョコレートでもいいかなって思ったんだけど」 九割以上カカオと言うチョコレートは、 クラスメイトの誰かが持ってきた物をクラスメイトの略全員が味見をしただけでノックアウトした伝説のチョコレート。苦くて、とても自分たちの知るチョコレートと呼べる代物ではなかったことを覚えている。 「あれは流石の僕でも全部食べられる自信がないよ」 「でしょ? だから打開策に考えたのかこれ。これなら自分で味付けできるしね。一応曲がりなりにもココアって事でカカオ入ってるし。一応シュウが食べやすいようにコーヒーでアクセントつけたんだけどどうだった?」 半分くらい食べたところで手を止めて紅茶で休憩を入れるハルカ。 「あの口に入れたときにした香りとほろ苦い正体はコーヒーだったんだね。確かにこれなら僕でも食べやすいよ」 「なら良かったかも」 満面の笑みを浮かべるハルカに釣られてシュウも嬉しくなる。しかし、あえて顔に出さないのがシュウ。 「まぁ、形が歪なのは君らしいけどね」 「大雑把とかそういうこと言いたいの?」 確かにちょっとばかりそのケーキは円形からずれているが、指摘するほどまでもない。 しかし、嫌味を何かしら言わずに入られないのがシュウ。好きな子ほどいじめたくなるという性格ゆえの行動。 「全く、美味しくてもシュウには何か言われちゃうのね。他の人は食べても形なんて気に……」 再びケーキにフォークを入れようとしたハルカの手が止まる。 「どうかした?」 コーヒーの入ったカップをテーブルに置き、流石に今回は言わなかった方が良いかと思ってしまったシュウはハルカ顔を覗き込む。 「今思ったけど、これ……男子に食べさせるのってシュウが初めてかもしれない。女の子とか家族には作ってあげてたけど。それに、こんなアレンジ入れたことなかったかも。とりあえずシュウ用にと思って考えてたけど」 その、何の気ないハルカのたった一言がシュウの心にパンケーキのようなふんわりとした気持ち、そしてコーヒーのような温かさが齎す。 「あの……なんで笑ってるの? 気味が悪いかも……」 「いや、別に」 そのときのシュウは嫌味や小ばかにした笑いではなく、親しい人だけに見せる本当の笑い方をしていたという。 彼女は知らない。 どうして僕が今年のバレンタイン、あんなに必死でチョコレートを断っていたか。 ホワイトデーが大変と言うのも理由にあるけど、そんな理由は一割にも過ぎない。 本当は彼女にバレンタインをしてあげたかったから。 いつも貰ってばっかりか、振り回してばかりだったから、今年は楽しんで欲しかった。 そんな理由で必死に彼女との時間を作ったのに。 やっぱり今年のバレンタインも満足したのは僕の方。 本当…… 「君には敵わないね」 「なにが?」 「分からないならいいさ」 「もー! いいかげんそうやってはぐらかすの止めてくれない?」 暫く二人はいつもの言い争い続けた。 だけど、その後にはちゃんと言えたんだ。 お互いが送った感謝の気持ちをね。 バレンタインに感謝の気持ち、送ってみませんか? ------------------------------------------------------------END--- 作者より…… チョコレートコスモスは前からバレンタインでかきたいと思っていたネタです。 そして、ハルカに作れる唯一の料理と言うネタも大分前からありました。 この二人にはバレンタインと言う行事を恋愛と言う形ではなく、 友人として行って欲しかったのです。何と言うか……日ごろの感謝をこめて? ハルカだけが送ってもいいかなと思ったんですが、家のシュウは甘い物が駄目なので、 そこからするとハルカがチョコレートを送るのはありえないなと思って、 しかし、何とかカカオ分を渡したいという私の考えを頑張って見たらこうなりました。 バレンタインは二人の世界って言うよりは、友人tのチョコを交換して食べるという 私の強い思い込みも見えますね。 でも、今の二人にはまだそんな関係でいて欲しいのです。 着かず離れずの二人を見守りながら今年もチョコを食させていただきます! 2007.2 竹中歩 |